ハチ公像の歴史

渋谷の待ち合わせスポットとしても有名な「ハチ公像」前。この場所はJR渋谷駅の「ハチ公口」という名称でも知られています。
渋谷のスクランブル交差点に繋がる場所に、この「ハチ公像」はあります。人通りが多い場所なので、初めて渋谷へ観光に訪れた方にとっては「ハチ公像」を見つけることが難しいですが、「ハチ公口」から渋谷駅前広場へと抜けた先に「ハチ公像」があるので、「ハチ公像」を見たい方は渋谷駅前広場を「ハチ公口」から目指して歩くことをオススメします。
とっても有名な「ハチ公像」ですが、その歴史をあらためて書いていきたいと思います。
「ハチ公像」にはモデルとなった犬がいます。『忠犬ハチ』の話でも有名な秋田犬のハチです。
ハチは1923年(大正12年)11月10日、秋田県で誕生しました。
ハチを飼い取ったのは、東京帝国大学農学部で教授として務めていた上野英三郎さんという方でした。
上野さんの自宅は、現在の渋谷区松濤一丁目付近にあり、ジョンとエスという2頭の犬が既に飼われており、ハチは3頭目として上野さん宅へと迎えられました。
この2頭のうち、ジョンは特にハチの面倒見が良かったそうです。
上野さんは愛犬家としても知られており、ハチはジョンやエス共々とても可愛がられました。
上野さんの愛情を一心に受けたハチは、上野さんが大学へ行く前は玄関先で見送りをして、上野さんが帰宅する時刻前になると最寄り駅の渋谷駅まで迎えに行くこともありました。
上野さんがハチを飼い始めて1年が過ぎた時、上野さんは農学部教授会会議の後、脳溢血で急死、帰らぬ人となってしまいます。
ハチは一向に帰ってこない上野さんを心配し、ジョンとエスと共に渋谷駅まで上野さんを迎えに行きましたが、上野さんが帰ってくることはありませんでした。
その後は、上野さんの妻である八重さんの親戚の呉服屋やさんに預けられますが、店に客が来ると、人懐っこい性格のハチはすぐに飛びついてしまい、呉服屋さんは商売が出来ず、浅草の知り合いの家に預けられました。
しかし、上野さんのことを忘れられないハチは、散歩中に渋谷へ向かって逸走することが度々あったそうです。
そんなハチを巡り、近所の人たちともめ事があったので、ハチは再び渋谷の上野さん宅へ戻されました。
ハチは渋谷に戻った後、よく近所の畑などを走りまわり、作物をダメにしてしまうことがあったため、渋谷の隣の富ヶ谷に住む上野宅出入りの植木職人である小林菊三郎さんの元へ預けられます。
小林さんは幼少時のハチを知っており、上野さんの死後、小林宅へと迎えられたハチをとても可愛がったそうです。
ですが、上野さんの死を受け入れられずにいたハチは、渋谷駅を訪れては上野さんらしき人がいないか、通行人を観察し、小林宅へは食事の時間にしか戻らず、食事を取った後もまた渋谷駅へと出向いていました。
渋谷駅前でただひたすら主人の帰りを待つハチに対して、通行人や子供たちが悪戯をしたり、時には虐待までしたそうです。
そんなハチの姿を哀れに思い、行動したのは、日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉さんでした。
斎藤さんはハチのことを新聞に寄稿し、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載されました。
その内容は人々の胸を打ち、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれて可愛がられました。
そして、上野さんが死去してから10年余りが経った1935年(昭和10年)。ハチは稲荷橋付近で亡くなっているのが発見されました。
ハチが亡くなった場所は、生前のハチが全く行くことがなかった場所であり、亡くなる前に商店街の人々にお礼周りをしていたのではないかと言われています。
ハチの主人を想う一途な心に感動した彫塑家の安藤照さんは1933年(昭和8年)、ハチの銅像を作りたいと日本犬保存会に申し出ました。
そして正式に日本犬保存会から、ハチの銅像の作成を依頼されました。
「ハチ公像」は戦時中に一度金属提出のため撤去されましたが、終戦後に士の制作によって再建されました。
現在の「ハチ公像」は二代目なんですね。